2018年11月25日

僕とF1とRCカーと【出会い編】


本能とRCカー


人は生まれて間もない頃から、ある行動をするようになります。

それは性格や性別に関係なく全ての人に共通する行動です。その行動が世界を学ぼうとする探求心によるものなのか、それとも自分を脅かす存在への警戒心によるものなのか、その行動のモチベーションの源泉が何であるのか僕には分かりません。ただ、確実に言えることは、その行動はとても本能的なものであり、大人に成長した後でも続くということです。

その行動とは『動くモノを見つめる』ことです。

生まれたばかりの赤ちゃんは視界が鮮明でないそうですが、視界に動くものを見つければ、それを目で追い続けます。さらに自我が形成され、自分に手があることを学ぶと、動くものに手を伸ばして触れようとします。それが一体何なのか?果たしてそれは自らが御すことが可能なのか?それを知ろうとする欲求に駆られるのです。

しかし、人が成長し学校や社会で生きるようになると、その本能はマナーや社会性の下で抑制されることになります。このようにして本能を抑えつけてしまうことは(たとえそれが無意識的であったとしても)、少なからずストレスを伴うでしょう。社会で生きる一員として、このような本能の抑えつけが少なからず必要であるのは言うまでもありませんが、そのストレスを発散したいという欲求を強く持つ人がいても不思議ではありません。

そんな欲求を満たすのに最適なもの。それが『モータースポーツ』です。

一般にモータースポーツと言えば、サーキットでレーシングカーを走らせる競技のことを意味しますが、今回のブログテーマである『RCカー』によるレースも立派なモータースポーツです。RCカーの最大の魅力は『動くモノを見つめる』という欲求を満たせるだけでなく、その動くモノを自らコントロールできることでしょう。また、実車でのモータースポーツに比べ、圧倒的に安価に楽しめることも魅力の一つです。

現在の愛車TB04PRO(引用元:タミヤ公式サイト)
かくいう自分もRCカーの魅力に虜になった一人なのですが、僕がF1エンジニアとなる道程でRCカーという趣味が多大な影響を与えたことは間違いありません。今回のブログテーマでは、僕とRCカーの歴史、そしてRCカーから学んだことを振り返ってみたいと思います。


RCカーとの出会い


僕が初めてRCカーと出会ったのは、残っている写真を確認する限りでは2歳になった頃のようです。下の写真は1979年11月4日に撮影されたもので、撮影したであろう父に向かって嬉しそうな笑みを浮かべています。

1979年11月4日の僕(満2歳)
写真が撮影された日から推察すると、このRCカーは父が僕に誕生日プレゼントとして買い与えてくれたようです。このRCカーは伝説のラリーカーとして名高いランチア・ストラトス。その斬新なデザインがとても印象に残っています。
確証はないのですが、どうやらこのRCカーはニッコー製のようです。プロポの前進スイッチをONにするとずっと前進し続け、ステアリングは当時としては珍しい(?)ホイーラータイプのプロポでした。


生まれて初めて与えてもらったRCカーは決して本格的なものではありませんでしたが、僕にとっては大切な宝物でした。結局、ボロボロになって壊れるまで夢中になって遊びつくしました。今となってはもう手元にありませんが、RCカー遊びは『動くモノ大好き!』という僕の本能的な欲求を満たしただけでなく、未来に向けて夢の種を僕の心に蒔いてくれていたように思います。




僕と父とRCと


『この親にしてこの子ありき』こんな言葉が、僕と父との関係性を表すのにぴったりな表現かも知れません。父も僕と同じようにRCに魅せられた一人でした。ただ、僕と決定的に違ったのは、父のカバーするRCの範囲が僕よりも広かったことでしょう。僕はRCカーのみでしたが、父の場合、RCカーは片手間で飛行機、グライダー、ヘリコプターなどの空モノがメインだったのです。

父の部屋は雑誌『ラジコン技術』で溢れ、休日には自作機体の設計・製作に勤しんでいました。父は大学で電気電子工学を専攻していましたが、畑違いの航空工学も独学で修得してしまいました。実際には比べようもないのですが、父のRC飛行機への情熱は僕のRCカーへの情熱を大きく上回っていたと思います。なぜなら、父は最終的にラジコン技術の編集部から寄稿を依頼される程だったからです。

ずっと前にその記事を見せてもらったことがあるのですが、本名ではなく母の旧姓と自分の名前を組み合わせたペンネーム(工藤勉)で寄稿されていました。父によれば、当時勤務していた会社(富士通研究所)に寄稿(副業?!)をしていることを知られたくなかったからだそうです(笑)。

ラジコン技術(引用元:電波社公式サイト)
僕が幼少の頃、家族は東京都町田市にある鶴川団地に住んでいました。当時、団地の近くには見晴らしの良い裏山のような場所がたくさんあり、RC飛行機を気軽に飛ばすことができました。休日になると、父は僕を連れてその裏山に行き、自らが設計したRC飛行機のテスト飛行に勤しむのですが、空を飛ぶ機体を真剣な眼差しで見上げる父の横顔(でもやっぱり口は開いていたと思う)、エンジンからの排気ガスの匂いが今でも記憶に残っています。

改めて振り返ってみると、父もゼロから何かを創造することが大好きな人でした。それは趣味だけでなく、仕事でも同じだったようです。富士通研究所での仕事に満足できなかった父は、富士通研究所を退職し独立します。決して意識していたワケではないのですが、僕も日産自動車を飛び出し、フランスでの修行を経てF1チームに加入するなど、僕も父とどことなく似たような人生を送っているようにも思います。『この親にしてこの子ありき』とは本当によく言ったものですね(笑)。

ちなみに余談ですが、現在の父はすでに仕事を引退して実家でのんびりしています。そして父の会社(コーダ電子株式会社)は親不孝者の僕に代わり実の姉が継いでくれています(笑)。


RCとのしばしの別れ


意外かも知れませんが、ずっとRCを楽しむ環境が続いていたわけではありませんでした。それは父の興味が全く異なる趣味へと向いてしまったことが原因でした。父に何があったのかは知りませんが、急にアウトドアライフへと目覚めてしまったのです(汗)。父にとって僕のRCカーへの想いなどはどこ吹く風。

しかし、自分のお小遣いでRCカーを楽しむことは難しく、タミヤRCカーグランプリに出場するなど夢のまた夢。結局、長きに渡ってRCカーとは縁のない生活を送ることになるのです。次回のブログでは、25年にも及ぶ僕のRCカー黎明期にどんなことがあったのか?そして、RCカーに代わり僕の本能的欲求を満たしてくれる、さらに小さなモータースポーツ(そうアレです!)との出会いを振り返ります。

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