2018年4月29日

僕がF1エンジニアになるまで【日産自動車時代編③】

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期待値を超えろ!


日産社内の人事制度、オープンエントリーによって決まった統合CAE部への異動。 それまでの職場は日産先進技術開発センターでしたが、初めて日産テクニカルセンター所属となりました。 勤務エリアも変わり、久しぶりに車両運動性能の仕事に携われるということもあって心躍っていました。 しかし、うかれてばかりはいられません。何せF1を目指しているわけですから、それ相応の成果を出せなくてはなりませんし、 仕事のスピード感も大切です。そこで異動と同時に新たな行動テーマを持つことにしました。

イギリス出張時の一コマ
そのテーマは『Over the expectations(期待値を超えろ!)』です。 周囲からの期待値を圧倒的に超えることは簡単ではありませんが、少しでも良いから期待値を超える成果を出すことで会社に貢献してみようという試みです。

噛み合い始めた歯車と成果


日産に入社して以来、貪欲にエンジニアとして成長することに没頭してきた結果、入社当時に比べるとずいぶん出来ることが増えてきた実感がありました。

加えて前回のブログでも紹介したように、物事の『本質を見極めること』を心掛けるようにした結果、新しい部署での仕事は日を追うごとに広がりを見せてきました。そして、嬉しいことに仕事での『楽しい!』という感情が久しぶりに戻ってきたのです。

性能最適化に携わったエクストレイル(引用元:日産自動車公式サイト)
そんなポジティブな好循環は新たなチャレンジの機会も運んできてくれました。空力性能CAE解析チームとのコラボ業務も任されることなったのです。 F1は車両運動性能と空力性能は絶対的な関連性があるだけに、空力性能に仕事で関われることは正に願ったり叶ったりでした。

気がつくと僕の仕事は車両運動性能シミュレーションだけでなく、イギリスやスペインでの空力走行実験の統括リーダー、スーパーコンピュータによるCAE解析プロジェクトへの参加など、驚くほど拡がっていたのです。

しかも、いずれの仕事も社内で過去に前例がない、または世界初とも言えるシミュレーション技術開発でチャレンジングな仕事に取り組む日々でした。 元来、会社で仕事することは全く苦痛ではないのですが、この頃は仕事が楽しくて仕方ありませんでした。オープンエントリーで掴んだ統合CAE部への異動。 自分でこう書くのも何ですが、今では最高の決断をすることができたと思っています。


最高の支えとなった人間関係


統合CAE部への異動が実現したこと、チャレンジングな仕事の機会に恵まれこと、このようなキャリアステップは僕の想いだけで掴み獲れたわけでは決してありません。 当時の統合CAE部の部長を始めとした管理職の皆さんが、僕を信用して仕事を任せてくれ、働きやすいようにサポートしてくれたのです。 また、当時の統合CAE部の同僚に始まり、実験部、実験技術開発部、パワートレイン開発部、関連子会社、CAE関連のソフトウェア会社、本当に多くの方々のサポートに支えて頂くことができました。

日産テクニカルセンター(引用元:日産チャンネル23ブログ)
今思えば、この頃は最も多くの方々と仕事でお付き合いのあった頃だと思います。 しかも、その全ての方々が前向きに仕事に協力して頂けたことは感謝の極みと言っても過言ではありません。 こういった支えがあったからこそ、僕にとって日産自動車はエンジニアとしてのホームグラウンドであり、本当に素晴らしい会社だったと自信を持って言えます。

F1入りに向け、いよいよ再始動。


統合CAE部で懸命に仕事に取り組む日々を過ごした結果、ある時から仕事において変化が見られるようになりました。 それは『周囲から頼りにされるようになった』ことです。同僚だけでなく、他部署や関連会社の方々からも『ちょっとお願いしたいことが…』といったお話を頂くことが増えてきたのです。

この実感を得たことで、あの思いが復活してきました。そう、F1への思いです。今の自分なら可能性があるかも知れない…そう思い、本格的にF1チームへの転職活動を始めることを決意したのです。

VJM08 Photo By Keisuke Kariya (引用元:Wikipedia)
任せてもらった仕事で多忙な日々を送ってはいましたが、毎晩のようにF1チームの求人情報をチェックしつつも履歴書作りに励む日々が始まりました。 とにもかくにも『F1』を目指す日がようやく訪れたのですが、そう簡単に事が運ばないのが世の常です。またしても新たな壁にぶつかることになるのです。

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2018年4月25日

僕がF1エンジニアになるまで【日産自動車時代編②】

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プライドを捨てろ。


日産に入社してすぐに崩れ去ったエンジニアとしての自信。この頃からでしょうか。 自分に出来ることと出来ないことをしっかりと区別するようにして、少しずつ出来ないことを減らすよう心掛けるようになりました。 実際のところ、出来ないことが本当に多すぎて大変でした。Y主担の下で少しだけ成長することができたものの、若さ故の根拠なきプライドは成長の妨げにしからないと確信し、それを心の奥底へと葬り去ります。

そして迎えた日産自動車での4年目。この年はこれまでのエンジニア人生の中で最も困難で苦難に満ちた時期となります。

先行開発から量産適用開発へ


走行制御開発部での先行開発は自分にとって本当に貴重な経験になりました。 実際に走行制御ロジックを考案し、実験車への実装、そしてテスト走行による性能確認とロジックの作り込み。 しかもテストドライバーは日産でも数える程しかいないトップガンのテストドライバーでした。 願わくばもう一度、同じ環境、同じメンバーで仕事をしたいと今でも思えるほど恵まれた環境だったと思います。 そんな素晴らしい環境も終わりを告げ、日産自動車での4年目を迎えるにあたって先行開発チームから量産適用開発チームへと部内異動することになりました。

日産スカイライン(引用元:日産自動車公式サイト)
新しいチームでの仕事はSteer-By-Wire(ステア・バイ・ワイヤ)の量産適用開発でした。日産自動車での商品名称はDAS(Direct Adaptive Steering)といい、ステアリングへのバイ・ワイヤ技術の量産化(現在はスカイラインに搭載)は世界初の試みでした。

この仕事は自分にとって今までのエンジニア人生の中で最もタフな仕事になりました。 当時、周囲の同僚にはあまり言いませんでしたが、産業医のお世話になる一歩手前まで追いつめられた程でした。 そんなタフな日々の中ではあったのですが、人生において最も重要とも言える学びを得ることになるのです。

得られた最大の学びとは。


DASの開発がタフだった理由。 それは『世界初の量産化』という点に尽きると思います。

先行開発車両では限られた環境下で訓練されたドライバーが搭乗するので、システムの作り込みレベルはそれほど高くありません。 しかし、量産車開発となると話は全く別次元の話となります。DASのようなシステムの場合、安全性・信頼性を最高レベルで実現しなくてはなりません。

(引用元:日産自動車先進技術説明会2012)
この頃、安全性・信頼性に関する国際規格ISO26262の運用が本格化するなど、安全性への要求基準が大幅に引き上げられた頃でした。 さらに社内どころか世界でも前例のないシステムの量産化開発。ゼロから始まる部分が想像以上に多かったのです。 その結果、暗中模索となる日も少なくなく、僕はどんどんと追い詰められてしまいました。

そんな時、同じチームの先輩が僕にこんなアドバイスをしてくれたのです。

『本質さえ分かってしまえば何てことない。』

当たり前と言えば当たり前です。しかし、様々なファクターが複雑に絡まり合った課題の『本質』を瞬時に突き止めることは容易ではありません。 この場合、この言葉の真意は『物事を一つ一つ分解、単純化して分かりやすくすること』にあります。 この言葉は今となっては僕の行動様式に強く織り込まれています。難しい課題にぶち当たる度に『つまりはどういうこと?』と冷静に考えて単純化し、本質の追求に取り組むようになったのです。 また、この言葉は単に技術だけに限った話ではありません。フランスで生活を送っている時、F1に向けての就職活動の時、様々なシーンでの難課題に落ち着いて対応できるようになりました。

僕にとって金言となったこのアドバイスは、Kさん(現在は主担)という方より頂きました。 当時は馴れ馴れしくも『兄貴』と呼んで慕っていましたが(笑)、Kさんよりアドバイスを頂けたおかげで厳しい時を乗り越えることができました。


量産車適用開発からの離脱


世界初の量産適用開発の最中、人生最大の学びを得ることができたものの、心の中では車両運動性能開発への想いがずっと残っていました。また、F1へと繋がるキャリアを考えると、この頃の仕事は自分にとってベストとは言えませんでした。

Red Bull RB8(引用元:Wikipedia)
年齢は30歳を過ぎたこともあり、自分の望む技術領域での仕事に戻る必要があると感じ始めた僕は、現状打開策を模索します。この時の僕が辿り着いた打開策。それは部署の上司や部長に異動を訴えることではなく、オープンエントリーという日産独自の社内公募人事制度を活用することでした。

この人事制度は、本人の意思で異動が可能で、受け入れ先の部署が面接を経てOKを出せば異動が実現します。 必ずしも希望のポジションが空いているとは限らないのですが、幸いなことに『そうそう、まさにコレ!』というポジションを見つけることができたのです。

それは統合CAE部の車両運動性能CAE解析チームでのポジションで、車両運動シミュレーションを駆使して車両運動に関わる様々な性能を評価することが仕事でした。 僕のために用意されたのか?!と思わないではいられない程の運命を感じた僕は、すぐさま応募の手続きに取り掛かりました。

CarSim(引用元:バーチャルメカニクス公式サイト)
そして関係者へのアピール(という名の根回し?)も功を奏し、無事に統合CAE部への異動内定を得ることができたのでした。 今思うに、この異動は妻からの喝に続くエンジニア人生第二の分水嶺になっていたと思います。 なぜなら、この統合CAE部に所属した4年間でF1入りが一気に現実味を帯びてきたからです。 異動は2012年1月1日付となったことが人事より告知され、日産での最後の4年間がいよいよ始まることになります。


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2018年4月21日

僕がF1エンジニアになるまで【日産自動車時代編①】

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心機一転のスタートも…


第一次転職活動を経て入社することとなった日産自動車。三菱自動車を2007年3月末で退社し、日産自動車へ入社したのは2007年4月のことです。 配属先は走行制御開発部で、車両運動に関連する走行系制御システムの先行開発~量産適用開発を担っている部署でした。 勤務地は厚木市森の里青山にある日産先進技術開発センターとなったので、愛知県大府市から神奈川県に引っ越し、新生活をスタートさせました。

日産先進技術開発センターNATC(引用元:日産自動車公式サイト)
当時の走行制御開発部は追浜の総合研究所出身の管理職の方が多くいたこともあって、先行開発と言うよりも研究開発寄りの立ち位置で開発を進めているという印象を受けました。 また、優秀で個性的なエンジニアも多く所属しており、充実したエンジニア生活を送れそうだなと感じました。そんな刺激的な環境での仕事が始まると同時に周囲との大きな"実力差"も思い知らされることになるのです。

配属先チームでの充実した時間


日産自動車での中途採用面接ではハイブリッド車の回生ブレーキ制御開発を希望していました。 当時、F1にもエネルギー回生システムであるKERSの導入が決まっていたので、その技術領域を習得したかったからです。 人事からは『希望通りの配属となる予定』と聞かされていたのですが、実際に入社してみると4WASなどを 扱うステアリング系制御システムの先行開発チームに加入することになっていました。最初は『んーちょっと話が違うぞ?』ちょっと当惑しましたが、この配属先変更は今振り返ってみると嬉しい誤算でした。

この当時、僕の配属先のチームを率いていたのは理論派切れ者エンジニアのY主担。4WASの生みの親でもあります。このチームに所属していた3年間で僕は車両運動を理論・実践の両面で深く学ぶことができたのですが、先にも書いたように周囲のエンジニアとの差は決して小さくなく、 Y主担を頻繁かつ大いにイラつかせてしまいました。

4WAS搭載のV36スカイライン(引用元:日産自動車公式サイト)
こんなエピソードが記憶に残っています。

Y主担が僕の席に来て、シミュレーションモデルについてあれこれと僕に指示を出し始めました。 けれども、Y主担の素早く難解な指示にモタつく自分。加えて、実行したシミュレーション結果についてもどう考察すれば良いのか分かりません。 背後には顔を真っ赤にしたY主担。ものすごいプレッシャーです(汗)。業を煮やしたY主担は、少しシンプルな条件下でのシミュレーションを実行するよう僕に再び指示を出すのです。 僕がその指示通りにした後、シミュレーション結果のグラフを見てY主担が一言こう言います。『分かるか?この結果はタイヤの非線形特性に起因しているんだ。』と。

当時の僕はタイヤの非線形特性は知ってはいたのですが、その知識が車両挙動への考察に結びついていなかったのです。 この時Y主担が教えたかったこと。それは単にタイヤの非線形特性についての知識ではなく、車両挙動がどんなファクターとの因果関係によって成り立っているのか? 全体を俯瞰してその因果関係を把握することだったのです。

当時の同僚との楽しかったツーリングの一コマ
僕にとってY主担はとても厳しい上司でした。しかし、幸いだったのはY主担が我慢強かったことです。実力不足の僕に決して匙を投げることなく、厳しくも熱意ある指導を施して頂けたのです。さらに同じチームには頼もしい二人の先輩社員、僕の1年後に入社してきた豪快で頼もしい後輩がいました。

どんな仕事であれ、日々の仕事から学びがあり、 職場の環境と人間関係に恵まれることは本当に幸せなことだと思いますが、この時はまさにそんな時だったと思います。Y主担を含めた5人のメンバーでの仕事は本当にエキサイティングでした。


先行開発での成果


当時の技術資料はもちろん手元にはありませんが、特許で当時の僕の仕事内容を伺い知ることができます。 当時出願した僕の特許が2013年に登録されていました。 Steer-By-Wire(ステア・バイ・ワイヤ)を活用した『車両用転舵制御装置』に関する技術で、左右間で摩擦係数の異なる路面(スプリットμ路)上でのブレーキ時に、 ドライバーに代わって自動でカウンターステアを当てるという制御です。

(引用元:Astamuse.com)
詳しい内容はリンク先を閲覧して頂くとして詳細の説明は割愛しますが、次のようなプロセスで開発に取り組んでいました。
  1. アイデアベースの制御ロジックをSimulink上でモデル化
  2. 車両運動モデルと連携させて制御性能をシミュレーションで検証
  3. 性能の目途が着いたらSimulinkモデルをCソースコードに書き下ろす
  4. ECUにCソースをリプログラムして台上で動作確認
  5. リプログラムしたECUを実車に搭載して走行テスト
  6. 走行データから性能課題を抽出し、制御ロジックをブラッシュアップ
上記のステップを繰り返して性能を磨いていくのですが、この仕事はとにかく楽しくて仕方ありませんでした。 ゼロから始まり、それまで世の中に存在し得なかった制御ロジックでクルマを動かす…楽しくないわけがありません!

封印したF1という目標


先行開発に勤しむ充実した日々を過ごしていましたが、一方で自分のエンジニアとしての実力のなさを痛感する日々でもありました。 正直なところ『F1云々とか言っている場合じゃない!』そんな状況でした。同じチームの先輩には多大な迷惑を掛けていましたし、とにかく出来ないことが多すぎました。

『さすがにこのままではまずいぞ…』

こんな危機感がヒシヒシと高まってきました。そこで、F1を目指す前に新しい課題を自分に課すことにしました。 それは『周囲から実力を認められるエンジニアになる』ことです。主観的ではなく客観的に、かつ相対的ではなく絶対的な実力を着ける必要があると考えたのです。

また、英語の実力もまだまだでした。この頃から定期的にTOEICを定期的に受験し、英会話学校にも週イチで通うようになったのですが、ベストは未だ700点台。海外で働くには少々心許ないレベルでした。

2005年F1日本GPでのRenault R25(著者撮影)
自分にとって最大の幸運は、仕事も英語力どちらも伸ばせる環境に恵まれたことでしょう。日産自動車でしっかりと実力を着ければ、いずれF1への可能性も見えてくるはず… そう考えた僕はF1という目標を一旦は脇に置き、自分自身のエンジニアとしての基礎固めに集中することにしたのです。 この課題を設定してからF1に辿り着くまで10年近くも掛かるのですが、この時の僕にはF1までの道程がどれほどになるのか、想像すらできていませんでした。

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2018年4月14日

僕がF1エンジニアになるまで【第一次転職活動編②】

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僕を奮い立たせた喝は…


ホンダとはまたしても縁はありませんでしたが、この転職活動によって縁のあった会社、それが日産自動車でした。 三菱自動車が僕のエンジニアとしての生みの親であるならば、日産自動車は育ての親と言えるかも知れません。

現在、F1チームで働くことができるようになったのも、日産でのキャリアがあればこそだと思っています。なぜならF1エンジニアとして求められる技術力は日産で培うことができましたし、 国際色豊かな職場が英語力によるコミュニケーション能力向上に役立ったからです。そんな日産自動車への入社は、いくつかの出会いによって紡ぎだされた縁だったのですが、 今回のブログではその経緯を紹介したいと思います。

実のところ、ホンダから残念な連絡を受けた後、僕は転職活動に少し及び腰になっていました。 日産自動車の中途採用セミナーにも参加予定だったのですが『日産はF1やってないし、セミナーに行くのもちょっと面倒だなぁ…』と思い、欠席しようか考えていました。

(引用元:日産自動車公式YouTubeチャンネル)
そんな僕の弱気発言に喝を入れてくれたのが、彼女(現在の妻)でした。『内定すらもらってないのに日産はなぁ…とか言える立場じゃないでしょ?!セミナー行ってきなよ!』と、 手厳しいお叱りをもらってしまったのですが、確かに彼女の言う通りです。実際に日産自動車に入社するかどうかはさておき、とにかくチャンスをもらうことが重要です。

そこで気持ちを引き締め直し、日産自動車の内定獲得に向けて一念発起することにしました。まずは日産自動車という会社がどんな会社なのかを知るため、全日本学生フォーミュラ大会で知り合った日産自動車の知人Hさんに連絡を取り、会って話を聞かせてもらう機会を作りました。

Hさんとは横浜で会う約束をし、僕は愛知から神奈川まで出向いていきましたが、ここぞとばかりにたくさんの質問をぶつけたことをよく覚えています。 迷惑な質問も少なくなかったと思いますが、親切なHさんは一つ一つの質問に懇切丁寧に答えてくれました。

数奇な日産との縁


迎えた中途採用セミナーの当日。今となってはセミナーの詳しい内容は覚えていませんが、印象に残っているのはマネージャクラス(主担)の社員の方々と直接お話する機会があったことです。そして幸運なことに、ここでお話をさせて頂いたM主担という方が、Hさんと日産自動車の総合研究所時代に同僚だったそうなのです。

共通の知り合いがいれば、人間関係の心理的距離感が縮まるのはよくあること。まさかこのタイミングでドンピシャリ起きるとは想像もしていませんでした。 セミナー参加前に日産自動車の中途採用には応募済みだったのですが、このセミナーでの出会いがきっかけとなり、Mさんから『もう応募しているなら面接に呼ぶよう人事に手配をかけておくね』と言って頂くことができたのです。

NATC在籍時の想い出のクルマY50フーガ(引用元:Goo-net)
そして数日後、日産自動車から書類選考通過の連絡があり、無事に面接に臨むことになりました。設けられた面接の回数は2回。1回目は課長と、2回目が部長との面接でした。 その2回の面接を経て無事に日産自動車から内定を頂くことができたのですが、今振り返っても、よくまぁ採用を決断してくれたなぁ…と思います。 その実力の低さゆえ、仮に僕がN部長だったならば間違いなく採用を躊躇していたでしょう。

実は日産自動車入社後、しばらく経ってからそのN部長に採用の決め手を質問したことがあります。なぜなら風のウワサで僕の採用が〇〇〇採用だったと聞いていたからです。


衝撃の採用判断基準


僕を採用するに当たっての採用判断基準についてのウワサ。その真偽が気になって仕方のなかった僕は意を決して部長に聞くことにしました。 『あのぉ…Nさん。ちょっと気になったんですけど…僕って本当に〇〇〇採用だったんですか?!』と。 あれは…確かNATC(日産先進技術開発センター)からNTC(日産テクニカルセンター)への移動のバスの中でした。 バスに揺られながら、N部長のニコニコ顔の口から放たれた返事はこうでした。

『うん、そうそう。キャラ採用だよ(笑)!』

N部長曰く『いや~面接では本当に大きなこと言ってたよねぇ~!。まぁガッツもありそうだったし、面白そうだったから採用してみた(笑)』とのこと。

僕の記憶の中では、面接でランサーWRC05の目標性能を全然うまく説明できなかったことが印象に残っていますが、大口を叩いたという記憶は全くありません(汗)。 でも、緊張のあまり無意識的に何か壮大なことを言っていたのかも知れません。何はともれ、そんな一風変わった採用基準だったようですが(汗)、晴れて日産自動車からの内定を頂くことができたのでした。

人と人の繋がりが紡ぎだす可能性


まさかの流れで日産自動車に入社することになりましたが、本当に興味深いのは、自分を取り囲む家族・友人・知人・彼女の存在があったからこそ、紡ぎ出された可能性があったということです。 あの時、妻が僕に喝を入れてくれなかったら、こうやってF1の世界に辿り着くことは出来なかったでしょうし、妻からの激励が僕の人生における重要な分水嶺の一つになっていたと思います。 喝を入れてくれた妻には心から感謝しても仕切れません。

(引用元:Nissannews.com)
この先のF1チーム加入に至るまで、本当に多くの人たちから応援の言葉やサポートを頂くことになったのですが、そういった方々との繋がりは自分にとって大変貴重な財産になりました。 そしてその財産をずっと大切にしていくことが真に重要であることを学びました。このような、貴重な出会いと人との繋がりに助けられた第一次転職活動を経て、いよいよ日産自動車に入社することになります。

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2018年4月11日

僕がF1エンジニアになるまで【第一次転職活動編①】

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伝わらぬ気持ち。


三菱自動車のWRC活動休止を受けて転職活動を決意したのですが、再びあの会社のことを考え始めます。言うまでもなく、ホンダです。この第一次転職活動では、結果的に日産に入社することになるのですが、今回はその経緯について書き綴っていこうと思います。

僕が第一次転職活動をしていた2006年当時、ホンダはF1活動の真っ最中でしたが、残念なことにモータースポーツ部門での中途採用枠はありませんでした。そのため、一旦はモータースポーツとは関係のない部署に入った上で、改めてモータースポーツ部門への異動を目指す必要がありました。そこで問題になったのが…

中途採用の志望動機欄に『F1』というキーワードを書くかどうか?

ということです。

(引用元:ホンダF1公式サイト)
そもそもホンダを志望する真の理由はF1です。正直なところ、それ以外には何もありません。正直にホンダへの志望動機を書くのであれば『F1』というキーワードを書くことになりますが、応募先のポジションがF1ではない以上『F1』というキーワードを含めずに志望動機を書かなくてはなりません。

しかし、僕は『F1』というキーワードを書くことにしたのです。もちろん、応募先のポジションを前提とした志望動機も書くのですが『いずれF1をやりたい』という想いもしっかりと書きました。

なぜF1への想いを書くことにしたのかというと、自分の気持ちに正直でありたいと思ったからです。ホンダが大好きでF1がやりたい、その気持ちを隠して志望動機を書く…自分にとっては意味が分かりません。素直な気持ちをぶつけて内定をもらうことこそ、本当の意味でホンダの社員になれるはず、そういった信念がありました。もしかしたらその想いを理解してもらえるかもしれないと考えていました。

ホンダ、再び。


しかし、僕の考えはまたしても間違っていたようです。

正直に『F1』への想いを綴ったエントリーシートが書類選考を通ることはなく、面接に呼ばれることはありませんでした。これで二度目。しかし、この結果を受けて落ち込んだかと言うとそうでもありませんでした。『やっぱり今回も同じか…』と、どこか達観してしまった気分になったのです。また、どことなくエントリーシート提出の時点で『たぶん受け入れてもらえないだろうな』と頭の片隅ではそう予感していたのです。

(引用元:ホンダF1公式サイト)
想いが強ければ強いほど、なぜか縁遠くなる。それが僕にとってのホンダという会社のようでした。けれども、縁がなかったからと言って嫌いになることもありませんし、ホンダという会社だけでなく、会社を作り上げた本田宗一郎氏と藤沢武夫氏のことも心から尊敬しています。

僕がホンダに入れなかったことには理由があるでしょうし、その理由もある程度は理解しています。ただ、一つだけ言えるのは、面接に呼ばれることもなく、話をする機会すら一度も頂けなかったことは自分にとって本当に残念で仕方なかった…ということです。


だからこそ負けられない。


この頃から、『ホンダとの縁が巡ってくることは今後ないだろう』と思うようになりました。実際に現時点でホンダとの縁はないままなのですが、そのことが僕にとってのモチベーションの源泉の一つとなりました。

(引用元:ホンダ公式サイト)
『ホンダにだけは絶対に負けられない。』こんな気持ちが芽生え、大きくなっていきました。ホンダに入ることが叶わぬのであれば、対峙する道を進んで相手を負かしてみせたい、そう考えるようになりました。 もちろん、F1に関わっていないことには勝つも負けるもありません。まずはF1にまで這い上がり、勝負を挑めるようになる必要があります。そこで、ホンダではないどこかでエンジニアとして成長し、F1チームに直接加入することを目標として自分に課したのです。

[つづきはコチラ]

※補足①
ホンダには多くの友人・知人がおり、F1に携わる方に限らず良い関係を築かせて頂いております。
※補足②
仮に自分の所属するチームが将来的にホンダからPU供給を受けるようになった場合、ビジネスパートナーとして良き関係を築く所存です。


2018年4月1日

僕がF1エンジニアになるまで【三菱自動車時代③】

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待望のMS部への異動


ボデー設計部での仕事にも慣れ、コルトへの光軸オートレベリング機能の搭載設計もおおよそ完了した頃、いよいよ待望の人事異動が上司より通達されました。念願のモータースポーツ部への異動です。2005年4月のことでした。所属先はラリー車両開発チームで、WRC参戦車両であったランサーWR05の性能解析や、次期新型車両の先行検討を担当することになりました。

ランサーWR05(引用元:三菱自動車公式サイト)
しかし、意気揚々な気持ちで異動はしたものの、またしても大きな壁にぶつかるのです。今度は『世界レベル』の壁でした。今となってはその壁も大して高くなかったなぁ…と振り返ることができますが、当時の僕にとっては気が遠くなるような高さだったことをよく覚えています。

車両運動CAEエンジニアとして


自分のエンジニア生活を振り返ってみると、本当に様々な範囲の技術に携わってきたなぁという実感があります。今となっては車両運動性能開発は自分のコア・コンピテンシーとなりましたが、ラリー車両開発チームに加入したことにより、この技術領域に初めて携わることになりました。

この時にMATLAB/Simulinkというソフトウェアを初めて使うことになります。今日では自動車業界に限らず多くの業界で使われており、MATLABなくして技術開発は不可能とまで言われるほどに重要なソフトウェアです。新しい職場での新たな仕事は、このソフトウェアを駆使して車両運動モデルを独自に開発することと、車両に搭載されているコンポーネントの事前性能検証を可能にするCAE環境の構築でした。

(引用元:MathWorks社公式サイト)
少し余談になりますが、将来モータースポーツで車両運動系エンジニア(Vehicle Dynamics Engineer, Performance Engineerなど)や制御システム系エンジニアになりたい人は、MATLAB/Simulinkのスキルを早い段階で習得しておくことを強くお勧めします。このスキルがあれば採用に有利になる…というよりも、むしろ必須スキルと言っても過言ではありません。

また、学生フォーミュラでもこのソフトウェアは有効に活用できると思います。モデル構築に始まり、計測した車両データのポストプロセス(計測後データ処理)など多岐に渡った用途に適用可能ですので、ぜひ参考にしてください。僕もこのMATLAB/Simulinkを駆使して様々なコードを作り、日々のデータ解析業務に活用しています。

立ちはだかった世界レベルの壁


学生時代にプロのレーシングドライバーを目指してカートに没頭する日々だった自分にとって、海外留学など世界に目を向けることは全くしていませんでした。当然、アルバイトで稼いだお金は全てカートへ…。社会人になって世界を意識するようにはなったものの、一度も海外に行ったことがありませんでした。

異動して職場でも落ち着けるようになった頃、上司は『MMSP(Mitsubishi Motor Sports Ltd.)に来て現地エンジニアと打ち合わせをして欲しい』という指示を僕に出しました。当時の上司はイギリスの開発拠点であるMMSPに駐在中で、開発の最前線を見ておいた方が良いと判断したのでしょう。

自分にとって初の海外、しかも単独での海外出張となったのです。TOEICの点数もその頃には600点台後半になっており、何とかギリギリやれるかなというレベルでしたが、海外渡航経験がなかったため一気に緊張感が高まりました。

(著者撮影:MMSPの社屋)
モータースポーツ部在籍中に延べ二回MMSPを訪問するのですが、一度目はどちらかというと現地エンジニアとの情報交換がメインで、二度目は日本側の開発方針を説明するというタスクでした。たった二度の訪問だったのですが、現地エンジニアのレベルの高さ、特に同年代のエンジニアとの実力差に愕然としました。全てにおいて自分が勝る部分が見当たらないのです。

欧米と日本で教育や就職の取り組みが大きく異なっていることも実力差の要因の一つだったのですが、それを言い訳にしても始まりません。とにかく彼らに追いつかねばならない、彼らの強みをとにかく地道に吸収していくほかない。そうした決意を持って出張から日本に戻ったのでした。

自分にとってこの出張は世界レベルを見る本当に良い機会になりました。当時の上司が僕に出張の機会を与えてくれたこと、今でも本当に感謝しています。ちなみに当時知り合った同年代のエンジニアとは今でも交流があり、そのうちの一人はSuper Aguri F1、Manor F1を経て現在はMercedes AMG HIGH PERFORMANCE POWERTRAINSでF1のPU開発に従事しています。


三菱WRC活動の休止


ラリージャパンの開催や、徐々に成果の出つつあった三菱のWRC活動でしたが、その活動にも終止符が打たれる時が訪れました。2005年の最終戦オーストラリアラリーの後、三菱自動車は次期型ランサーでのカムバックを目指すため、WRCワークス活動の休止を宣言したのです。当時、実際にどのような論議が起こっていたのかをこのブログに書くことはできませんが、最終的に僕が下した決断は三菱自動車を去ることでした。

(引用元:三菱自動車公式サイト)
三菱自動車に残るという選択肢ももちろん考えていました。近い将来、三菱自動車がWRCに戻ってくる可能性もゼロではありませんでしたし、WRCでなくとも何らかの形で再びモータースポーツの世界に戻ってくるだろうとは思っていました。

それをずっと待ち続けることが果たして最良の選択となりうるのか?そしてエンジニアとして未だ半人前である自分が、より成長するために進むべき道は何なのだろうか?と、ずっと自問自答を続けました。そもそも三菱自動車に入社したのは世界レベルのモータースポーツにエンジニアとして関わることです。それが叶わないのであれば、自分をより成長させてくれる環境に移った方が良さそうだ…と思い始めました。

この時学んだこと。

それは、日本の自動車メーカーのモータースポーツ活動は会社都合によって簡単に方針が変わってしまうため、モータースポーツのキャリアを計画的に積むことが難しいということです。自分自身の意思でどうにもできない部分があまりに大きいのです。

このような状況を回避するための最良の選択、それはヨーロッパに渡り、モータースポーツ関連の会社に転職することです。しかし、当時の僕にそんな実力がないことは痛いほど理解していたので、エンジニアとしての成長が最も見込める場所をまずは国内で探し求めることにしたのです。

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