2018年3月22日

僕がF1エンジニアになるまで【三菱自動車時代②】

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設計エンジニアとしてのスタート


危機感を抱きつつも始まったエンジニア人生。研修が終わるといよいよ本配属となり、実務が始まります。配属先のチームはボデー設計部のヘッドランプ・ワイパー搭載設計です。モータースポーツとは全く関係のない仕事でしたが、初めての開発の仕事にやる気に満ちていました。その熱気に職場の先輩や上司は『なんか暑苦しいヤツが来てしまったぞ…』と思っていたに違いありません(汗)。


さて、突然ですがHIDヘッドランプをご存知でしょうか?

今ではLEDが主流になりつつありますが、HIDヘッドランプはその光の鮮やかさと明るさから人気の装備でした。しかし、その明るさゆえに対向車へのグレア光(幻惑光)が問題になっていました。重い荷物の積載時にリヤの車高が下がることで光軸がズレてしまい、対向車のドライバーの目にHIDの光が当たってしまうのです。この課題に対応するため、欧州と日本の法規によってHIDヘッドランプ搭載車への光軸オートレベリング機能の搭載が義務化されることになったのです。

光軸オートレベリング機能(引用元:ホンダ公式サイト)
当時、コルトもHIDヘッドランプを搭載して販売していましたが、光軸マニュアルレベリング機能しか搭載されていなかったため、2006年の法規施行に向けて設計変更をする必要がありました。僕が初めて担当させてもらった仕事、それが光軸オートレベリング機能の搭載設計でした。

全ての設計には理由がある


経験が浅いながらも、設計に格闘する日々が始まりました。単に設計と言っても考えなくてはならないことは多岐に渡り、おおまかには次のような開発項目があります。
  1. 機能を構成するための各部品設計
  2. コンポーネントのレイアウト設計
  3. ブラケット類の強度・耐久性検討
  4. 生産ラインでの組付成立性の検討
  5. 寒冷/酷熱条件化での機能性確認
  6. 衝突時の安全性検討
  7. コスト成立性
これらの課題を全てクリアするため、設計者が中心となって開発を進める必要があります。定期的に設計検討会を開催し一つ一つ課題をつぶしていくのですが、いつも厄介だったのは、各課題が相互に絡まり合ったトレードオフの関係となっていることです。すんなりと設計が進むことは稀で、CAD(当時はCATIA V4!)での設計と関係部署との調整に追われる日々でした。

当時、関連部署とちょっとした相談や調整が必要になった場合、僕は決まって相手のデスクを訪れ、顔を合わせてのコミュニケーションを心掛けていました。その方がお互いに理解を深められますし、なにより一緒に仕事をする仲間としての一体感を作り上げることができるからです。設計内だけでなく実験棟や生産部門など、岡崎の開発拠点内をいつも右往左往していました。

いつしか、良くすれ違うスタジオパッケージ部の先輩社員から『今日も頑張って走り回ってるね!』と声を掛けてもらえるようにもなりました(笑)。このように足で稼ぎだした信頼関係は仕事を進める上で本当に助かったことを記憶しています。

開発に携わったコルトプラス(引用元:カーセンサー)
ボデー設計部に所属した二年間、当時の上司や先輩からはノビノビとやらせてもらえたこと、関連部署からの親身な協力のおかげでエンジニアとして多くのことを学ぶことができました。その中での最も重要な学びは『理由のない設計は、設計ではない』ということです。

ボルトの溶接位置、板金部品の厚さ、塗装の仕様など、エンジニアリングには必ず工学的な根拠が求められます。そのことを肌で感じながら学ぶことができたのです。今、振り返ってみても本当に充実した二年間でした。しかし、その一方であの事件の再発によって想像以上に大きな十字架を心に背負うことになるのです。


再びのリコール隠し事件


覚悟して入社したつもりではいました。

三菱自動車に入社した以上、『僕は2003年入社なので2000年に発覚したリコール隠しとは関係ありません』などと言えませんし、そんなことを言おうと考えたことも全くありません。良いクルマ作りを通じて社会からの信頼回復を成し得たい、本気でそう考えていました。迷惑を掛けてしまった人、不幸にも事故で亡くなってしまった人に少しでも報いること、それが三菱自動車で働くことだとも理解していたつもりでした。

しかし、社会人生活も二年目に入ろうという頃、三菱ふそうのハブ強度問題を発端とした2回目のリコール隠し事件が起きたのです。まさに青天の霹靂でした。ハブ強度問題以外にも三菱車の炎上事故も恣意的にクローズアップされ、岡崎の開発拠点にはマスコミも詰め掛けてきました。連日テレビでは虚実入り混じった情報で溢れ、バッシングの嵐が吹き荒れていました。

そんな三菱自動車へのネガティブキャンペーン一色のマスコミ報道の中、当時住んでいた寮の部屋でその様子をテレビで見ながら、一人涙を流したこともあります。今思い返しても涙がこぼれ落ちそうになる、本当につらく悲しい思い出です。僕らは犯罪者になってしまった、そんなことが多くの社員の心に強く刻まれたのではないでしょうか。

その結果、多くの先輩や同期が会社を去っていきました。販売業績の極端な落ち込みにより冬のボーナス不支給が決定し、基本給も5%カットされました。この事件の影響を受け、豊田市内に在住の先輩社員は、小学校に通うお子さんが小学校でいじめにあったとも言っていました。ダイムラー・クライスラーとの資本提携打ち切りも発表され、いよいよ会社の存続も危ういという報道が飛び交うようになりました。

それでも三菱に残ることを決意


そもそも三菱に入った目的はモータースポーツにエンジニアとして関わり、F1への足掛かりにすることです。そして、自動車エンジニアとしての可能性を与えてくれた三菱自動車に貢献することだったので、三菱自動車を辞めるという選択肢はその時点では全く持っていませんでした。

実はボデー設計で汗を流す傍らで、当時A&B車両開発部の部長であった相川哲郎氏(元三菱自動車工業社長)にモータースポーツ部門への異動をずっと直訴し続けていたのです。異動先となるモータースポーツ部の部長にも異動を直訴し続けていました。

(引用元:Response)
部長への異動を初めて直訴したのは、ボデー設計部へ配属されて一か月も経っていなかった頃のことでした。相川部長の席を訪れ、自分のキャリアプランについて力説し『自分はこのボデー設計部でエンジニアとしての基本を学んだ後はモータースポーツ部門で仕事をしたいと考えています。ちゃんと成果を出せたら、2~3年以内に異動をさせてください!』と伝えたのです。

今思えばとんでもない新入社員だったと思いますが、異動を部長に認めてもらうからには、任された仕事でちゃんと成果を出す必要があります。リコール隠し事件でつらく悲しい思いを胸に抱えることにはなりましたが、モータースポーツ部門への異動を夢見ながら頑張った二年間でした。

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2018年3月18日

僕がF1エンジニアになるまで【三菱自動車時代①】

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厄介な新入社員として名を馳せる?


就職活動後、無事に大学院を修了した僕は自動車エンジニアとしてのキャリアを三菱自動車でスタートさせました。三菱自動車では4年間働くことになるのですが、この4年間で様々なことを学ぶことになります。その様々な学びには自分の想像を超えた学びも含まれていたのでした。

さて、一般的に日本では入社直後に新入社員を待ち受けているものがあります。そう、新人研修です。僕も様々な技術教育講座を受講したのですが、僕はこの研修期間中にまたしても突拍子もない行動に出ます。それは『疑問や質問を持ったら、その講義中に必ず講師に聞く』ことです。今振り返ってみると少々積極的過ぎたかも知れませんが…(汗)。

(引用元:レスポンス)
今でも講師の方々への質問をいくつか覚えています。実験部の操縦安定性に関する講義では『官能評価は定性的な評価とのことですが、評価ドライバーの主観はどうやって取り除いているのですか?』と質問し、衝突安全性解析の講義では『衝突FEM解析の結果と衝突実験の結果が酷似し過ぎているように思いますが、FEM解析側で何かチューニングしてませんか?』と質問したことを覚えています。質問される立場からすればかなり厄介な質問者だったと思います。

結果的に9割ほどの講義で質問をしましたが、ここでの学びは『技術の前に遠慮は不要』だということ。僕の積極的な行動に対し同期から冷ややかな見方をされた部分もあったかと思います。しかし、周囲の目を気にするあまり、せっかくの教育講座で得るものが無い方がよっぽどもったいない。赤っ恥をかくような質問をしたこともありましたが、その質問をしたことで自分が理解不足であることに気付くこともできました。とにかく機会を最大限に生かしたいという想いでいました。

今でも続く『少しずつでも良いから学びを得る』という自分のスタイルはこの頃から始まったように思います。


少し冷静に考えた配属希望


周囲から見れば少々(?)厄介な新入社員としてスタートを切りましたが、一方で研修を通じて自分自身の大きな課題に気付きました。それはモノづくりの経験がとても乏しかったことです。大学ではそれなりに机上の理論は学んできましたが、実際に手を動かして設計して、モノを作り上げて、工夫して…というエンジニアとしての基本となる経験がなかったのです。研修でどんなにたくさんの質問をしても、その経験不足を補完することはできません。

そこでふと思ったのです。『最初からモータースポーツ部を希望して配属されたところで、僕がやれることはたかが知れているのでは?』と。まずは設計してモノの作れるエンジニアになる必要があると考え、量産車開発の部署を志望することにしました。WRC車両のベースは量産車ですから、まずは基本となる部分を学ぼう、そういう思いで配属希望書を提出したのでした。

開発に携わったSmart ForFour(引用元:カーセンサー)
結果、決まった人生初の配属先は『車両開発本部A&Bボデー設計部』でした。軽自動車とコンパクトカーが設計対象の部署で、当時の開発車種はコルトやSmartのForFourなどでした。ボデー設計部は更にいくつかのグループに分かれており、自分の担当はヘッドランプやワイパーなど電装部品の搭載設計でした。現在の仕事内容とは恐ろしいほど異なります(汗)。

現在の仕事ではCADで図面を引くことはしませんが、ゼロから部品を設計して試作品が出来上がった時のことは本当に良く覚えていますし、とても感動しました。その部品が搭載されている三菱コルトを見ると、いつも初心に返ることができます。

英語力に対する危機感


ここで少し英語について触れたいと思います。自分のキャリアにおいて英語は重要なファクターの一つなのですが、幸いなことに社会人になってからは常に英語学習や海外を意識させられる環境に置かれてきました。当時の三菱自動車はダイムラー・クライスラーの傘下にあり、社内にはドイツから派遣されてきたエンジニアがいたのです。そんな環境のおかげもあって、同期を通じて海外の若手エンジニアとの交流を持つことができました。しかし、またしても大きな課題に気付くのです。決定的な英語力の低さです(汗)。

当時の僕の英語力と言えばTOEIC500点台…。そもそもF1チームで働くことを夢見る以前の実力でした。僕は局所的にガッツリと努力をすることができない性格なので、まずは無理なく一歩一歩英語を勉強することにしました。毎日の通勤中にTOEICのCDを聞いたり、JAPAN TIMESをちょいちょい読むなど、とてもゆる~い努力ではありましたが、文字通り一歩一歩でした。

(引用元:TOEIC公式サイト)
最終的に海外で仕事ができるレベルにまで僕の英語力は到達するのですが、今現在も自分の英語力には満足できていません。まさに日々是精進ですが、何はともあれエンジニアとしての経験のなさと英語力の不足、課題ばかりを強く意識することになった社会人一年目だったのでした。

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2018年3月11日

僕がF1エンジニアになるまで【学生就職活動編その②】

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呼び覚まされる想い


野村総合研究所(NRI)から内定をもらった僕は、とりあえず就職活動を終わらせ、夏休みに入りました。NRIの内定者の仲間とは妙にウマが合ったことも後押しして、その夏休みはその仲間たちと遊びほうけていました。当時の僕はまだ若かったこともあり、気が付くと髪の毛は金髪になり学生生活最後の夏休みを思いっきり満喫していました(笑)。

(筆者撮影:Williamsチームの正門)
ところで、僕は大学時代に自動車工学研究会(理工系サークル)に加え、F1ジャーナリストの今宮純さんがOBに名を連ねる自動車研究会(文科系サークル)という二つのサークルに所属していました。夏休み中は遊びほうけてばかりいた僕でしたが、ある日、自動車研究会の先輩に電話をすることになりました。どんな用件だったのかは覚えていませんが、その先輩との電話をキッカケに、心の奥底に仕舞いこんでいた本当の気持ちが、再び心の中心に呼び戻されてしまうのです。

流した涙と本当の気持ち


久しぶりに連絡を取った先輩との電話。当然、就職活動が話題に上がりました。そしてホンダやブリヂストンと縁がなかったこと、そして最終的にNRIにお世話になることを報告しました。その時、いつも優しく接してくれる先輩が僕の報告の後にこう聞いてきたのでした。

『それって本心なの?』

核心をついた先輩の質問に返す言葉がありませんでした。本心に従って決めた就職先ではなかったので当たり前です。そして先輩と話をしている最中、堪えようのない涙が溢れてきました。その涙は言うまでもなく悔し涙でした。心の奥底でくすぶる、叶わなかったF1への想い。そのことに改めて気付かされました。と同時に『このまま進んだら絶対に後悔する』とも痛感しました。

改めて当時を振り返ってみると、先輩が僕に対して納得できなかったであろうことは、F1に関連する企業への就職に失敗したことで、自動車エンジニアへの道も自ら閉ざしてしまったことだと思います。極端なことを言ってしまえば、たかが新卒での就職で希望の会社に入れなかっただけの話です。ホンダ、ブリヂストン以外にも自動車系企業はたくさんありますし、いきなりF1に関われないとしても、技術系のキャリアを積んでいけば将来的にF1の仕事に携わる可能性は十分にあります。

今となってはホンダとブリヂストンへの就職失敗も大した挫折でもなかったな~と思えるのですが、当時の僕の未熟さと若さ故にその挫折にかなり落ち込みました。しかし、すでに社会人として働いていた先輩からのアドバイスに素直に耳を傾けたことで、狂い掛けていた運命の歯車を少しずつありたい方向へと修正できたように思います。


就職活動再開までの葛藤


先輩との電話からしばらく経ち、夏休みも終盤の頃。いつものようにF1の中継放送をフジテレビで観戦していた時のことです。先輩との電話のこと、その時に流した悔し涙が思い出されました。

『やっぱり自分がやりたい仕事はF1なんだよな…。』

こんな自分の想いを改めて痛感しました。しかし、F1に深く携われる企業への望みは絶たれてしまっています。

『だけど、これで終わりって決めつけていいものか…。』

とにかく吹っ切ることのできないモヤモヤした感情に苛まれました。そのモヤモヤを恋愛に例えるならば、好きな子にフラれたけれども、やっぱり諦めきれずにいるような感覚でした。しかし、恋愛と就職で決定的に異なるのは、自分が望む限り再挑戦できることです。F1の仕事にすぐに関わることができないとしても、一歩一歩キャリアを積み上げ、遠回りをしてでもその世界に近づけるよう頑張ればよいだけのことです。

結局、心の中のモヤモヤは、F1に向けて遠回りすることを決意できずにいたことが原因だったと今では考えています。そして、この程度のことが決意できていない時点で、当時の僕はF1に相応しい人間ではなかったと思います。F1の世界で働くことは、それがF1チーム、ホンダ、ブリヂストン、いずれかに関わらずトップガンクラスのエンジニアである必要があります。仮に運良くホンダに入社していたとしても、F1に携わらせてもらえなかった可能性を否定できません。

(引用元:ホンダ公式サイト)
そんな脆弱な決意しか持っていなかった自分ですが、辛うじて先輩との電話をきっかけに就職活動をやり直すことを決意しました。『とりえあず、夏休みが明けたら就職活動をやりなおしてみよう…』と。

チャンスをくれた三菱自動車


夏休みが明け、大学に行くと真っ先に向かったのは就職課です。9月の時点で自由応募の採用はどの企業も終了していましたが、採用を継続している自動車メーカーの推薦枠がわずかに二つ残っていました。そのうちの一つ、それが三菱自動車工業でしたが、三菱自動車は2000年に発覚したリコール隠し事件の影響もあり、当時の学生からの評判は正直なところ良いものではありませんでした。

しかし、F1ではないにせよ三菱自動車の最大の魅力、それはWRCやパリダカなどのモータースポーツ活動でした。当時の僕にとっては、世界選手権レベルのモータースポーツに関われる可能性がある、それだけでも十分過ぎる程の魅力がありました。早速、就職課を通じて推薦の応募に取り掛かりました。そこからは本当にあっという間の出来事で、田町本社で実施された面接も無難にこなし、無事に三菱自動車から内定を頂くことが出来たのです。確か内定を頂いたのは10月1日の内定式の2週間ほど前だったと思います。

(引用元:三菱自動車工業公式サイト)
三菱自動車の内定を頂いてすぐにNRIへ内定辞退の連絡をしましたが、人事の方からは『え?!三菱自動車?!大丈夫なの??』と心配されましたが『どうしても実現したいことがあるので、三菱自動車にお世話になることにしました。』と伝え、丁重に内定を辞退させてもらいました。

何はともあれ、こうやって自動車エンジニアとして社会人をスタートするチャンスを手にすることができたのでした。

就職活動を振り返って


働くとはどういうことなのか?どんな意味があるのか?こんな疑問に全く思いを馳せることもなく、ただ単に自分のやりたいことだけを追い求める…これが僕の当時の就職活動でした。幸運にも三菱自動車との縁があったおかげで自動車エンジニアとしての社会人をスタートすることができましたが、本来であれば『働くことの意味』についてもっと真剣に考えるべきだったと反省しています。

実は三菱自動車で働いた4年間で『働くことの意味』を真に理解するのですが、その経験を踏まえて言えることは、従事する仕事が何であれ、世のため人のために汗水を流すことで得られる見返りが給料であるということです。今でこそF1で働いていますが、単にレースで勝てるクルマを作ることだけが、自分に課された最重要コミットメントだとは考えていません。F1というエンターテインメントを通じて、F1ファンを楽しませる、幸せにすること。広義にはこれが僕が成すべき社会貢献であり、仕事であると考えています。

さて、次回は三菱自動車時代のエピソードを紹介したいと思います。モータースポーツに情熱的な自分は三菱自動車への入社後、またしても『意外』な決断を下すことになるのです。

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2018年3月1日

僕がF1エンジニアになるまで【学生就職活動編その①】

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F1の世界で仕事がしたい


F1好きなら誰しもが抱くであろうこの想い。そしてその想いを胸に就職活動に臨む学生であれば、必ず選択肢に入ってくるであろう企業があります。そう、ホンダです。大学院2年生の僕が就職活動をしていた2002年、ホンダはエンジンだけでなく車体開発にも乗り出していた時でした。
(引用元:ホンダ公式サイト)
当然、ホンダの内定を獲得すべく就職活動に取り組み始めるのですが、まさか自分がホンダと全く縁のないエンジニア生活を送ることになろうとは、その時は全く知る由もありませんでした。

空回りするF1への強い想い


僕が所属していた大学からホンダへと就職する場合、当時は一般公募での採用は認められておらず、大学からの推薦をもらう必要がありました。自動車好きから絶大な人気を誇るホンダということもあり、応募者数は推薦枠の人数を毎年上回っていました。そうなると学内選考会を経て推薦を勝ち取らなくてはなりません。当時の僕は文字通り"熱意だけ"の男であったため、その熱意をアピールすべく突拍子もない行動を取るのでした。その行動のアイデアを聞いた友人は『俺…お前ほどホンダへの熱い思い入れもないし、他の会社の推薦に応募するよ…。』とその友人の志望企業を変えさせてしまう程でした。

(引用元:慶應義塾大学公式サイト)
今となっては呆れるような行動でしたが、根拠のない大いなる自信を胸に意気揚々と選考会に臨みました。自分のF1への激しい情熱は選考を担当する教授にもきっと伝わるはずだろうし、驚くはずだ。そう信じて疑わず、とある筋から入手したホンダのロゴ入りARTAピットクルーシャツを身にまとい、カートレースで愛用していたアライ製ヘルメットGP-3K(ペイントはスタジオKOME)を携えて選考会に臨んだのでした。

結果、学内選考会は見事に落選。

当然の結果と言えば当然なのですが、ホンダとの面接に臨むことすら叶わず、かなり落ち込みました。ちなみに選考会での個別面接では、始まった直後から『君は他の企業の推薦にした方が良いのでは?』と言われる始末でしたので、大学側は学業成績の良くなかった僕に推薦を出すつもりは毛頭なかったようです。

(引用元:ホンダ公式サイト)
しかし、ここでF1への夢を諦めるわけにはいきません。当時F1をやっていた日本企業はホンダだけではありませんでした。そう、ブリヂストンです。ホンダへの未練を引きずり続け、選考会で面接を担当していた教授に強烈な悪態をつくなど、今思えば恐ろしくタチの悪い学生でしたが、どうにかこうにかブリヂストンへの推薦を大学からもらうことができました。

あまり詳しくは書きたくないのですが、F1に取り組む日本企業の就職面接を受ける場合、『F1』という言葉はどうもNGワードのようです。熱意があればあるほどF1以外の本来業務には見向きもしない人間…と思われてしまうのかも知れません。そして大人になり切れないガキだった自分はまたしても自信満々で小平の技術センターに乗り込んでいくのでした。

そして、ブリヂストンも見事に不合格。

実は不合格になるであろうことは、面接直後に自分では分かっていました。恐らくダメだろうな…と。というのも面接をして頂いた方の反感を買ってしまったのです。『F1』という言葉が日本企業で持つ意味を理解していなかったことが、面接でネガティブな要因となってしまったようでした。結果は結果として受け止めなくてはなりませんが、悲しくも残念であったのは、自分の夢に理解を示してくれる人が企業側に全くいなかったことでした。もちろん、企業側の採用に対する考えも理解はできますが、当時の僕にとって納得できることではありませんでした。

そんなやるせない気持ちを胸に就職活動を続けていくのですが、自由公募で応募した日産自動車の総合研究所の選考も最終面接で落とされ、内定のないまま、いよいよドン底まで突き落とされるのでした。


たった一つの内定に揺らぐ気持ち


F1に関わることのできる企業への入社の可能性が潰えたことで、もはや自動車系メーカーへの就職意欲を完全に失ってしまいました。そんな折、僕に内定を出してくれた企業が一社だけ現れるのです。それはF1とは全く以て関係のない、野村総合研究所(NRI)という会社でした。正直なところ書類選考を通過することも期待していなかったのですが、なぜかスルスルと選考が進み、気が付いたら内定を頂いていました。

(引用元:野村総合研究所公式サイト)
このNRIという会社、個性的という言葉がとても似合うと思います。というのも、内定後に知り合った内定者同期とは自分でもびっくりするくらい気が合ったのです。自分がどんなに素っ頓狂な行動を取っても、それを個性的と言って喜んでくれるのです。ちょっと普通じゃない自分の個性を受け入れてくれたのは、この時が人生で初めてだったかも知れません。

たった一つの内定でしたが、自分にとっては本当にありがたい内定だったのです。そして、そのありがたさに絆され、自分の心の中にあるF1へのこだわりが急速に薄れてしまったのでした。『モータースポーツは趣味である方が楽しいだろうし、仕事にしたら楽しめなくなりそうだ。』そう自分に思い込こませ、NRIにお世話になることを決意して就職活動を終わらせたのでした。

『これでいいはずだ。うん、それで間違いない。』そう思い込んでいた自分。もしもあの時、自分の周囲に自分の夢と想いを理解している人が一人もいなかったとしたら、その思い込みを抱えたままNRIに入社していたことでしょう。

しかし幸運なことにそうはなりませんでした。狂い掛けた歯車が、あることがきっかけで自分のありたい方向へと噛み合い始めるのです。

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